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夏の思い出

2023年7月28日

梅雨が明け、高気圧が本州を覆うと夏山シーズンとなる。最近は老若男女が安易な気持ちで入山するため、昔では考えられないような初歩的なミスで遭難事故も多発しているようだが、北アルプスも最奥部まで至れば、簡易な装備の登山者は見ることはない。なので当時それなりの経験を持っていると自負していた(それが一番危ないのだが)自分は、北アルプスの核心部に至る長大なコースや、入山者が少ない南アルプスを好んだ。

 

その時は立山から薬師岳、雲ノ平を経由して槍ヶ岳に至るコースを縦走していた。山小屋には止まらず全行程テントだったので、装備も相当なものになる。経験がある人は分かると思うが、装備を少しでも減らすためには一番嵩張る衣服を減らすことが重要だ。かと言って防寒具や雨具は必須なので、行動着の替えを極力持たずに着たきりになることだ。山に入れば他人とさほど接近することもないので、臭いに関しては下山後に綺麗な服に着替えれば問題はない。当時から山岳ウェアは速乾性の素材が開発されており、フリースなど一般的な素材になる何年も前から山の世界では当たり前に着られていた。他に食料の不要なパッケージなどは取り払い、トイレットペーパーも中芯を抜くような軽量化を図っても、装備の重量は20kgを遥かに超えた。

 

信濃大町から立山に入山したその時は、途中の雲ノ平くらいで一回着替え、槍ヶ岳を制覇した後はそのまま上高地に至らず、ゆっくり梓川沿いを歩いて水浴びしたり昼寝したりして横尾山荘に宿泊した。最後に横尾山荘に泊ったのは下山前に風呂に入りたかったからだ。真夏に1週間以上も縦走すると、日焼けはとんでもないことになる。なので汚れは目立たないが、臭いは相当だったはずだ。相部屋の人たちが数人いたが、それらの人たちは今から穂高や槍を目指すようで、翌朝ゆっくり起きると部屋には誰もいなかった。上高地からのバスは一般の観光客も多いはずだ。極力汗をかかないようにのんびり横尾から上高地まで歩いた。

 

上高地は日本で一番好きな場所だが、夏場と紅葉時は観光客が凄い。当時はインバウンドなど全くいなかったが、国内観光客で河童橋近辺は観光客でごった返していた。それを尻目に松本行のバスに乗り込むが、案の定ほぼ満席だったが、野人の風貌の自分の隣の席だけは空いていた。松本行なので、沢渡駐車場で下車する人はいなかったが、島々の手前の「徳本峠入口」でバスは止まった。どうやら徳本峠を経由して下山して来た人が乗車するようだ。


「徳本峠」と言えば、アルピニスト誰もが一度はその峠を経由して北アルプスに入山(下山)したいと願う憧れのクラシックルートだ。そのルートを経由して下山して来たのだから、相当なエキスパートだろう。当時でも徳本峠を経由するルートを選択するのは大学の山岳部か相当な経験者だったはずだ。どんな人が乗り込んでくるのかとバスの乗客一同が固唾を飲んで見守っていると、乗り込んできたのは「野人」ではなかった。完全に「猿人」と化した獣がバスにのっそりと乗り込んできた。その瞬間、もの凄い酸っぱい臭いがバスを支配した。「おいおい、何日間も風呂に入らない状態で下界に降りてくるなよ」と呆れて見ていたが、その刹那、自分は驚愕の事実を認識した。「お、おい、待てよ」と思った。空いている席は自分の隣しかないのだ。席はいわゆる観光バスなので、各列二人づつ並んで座ることになる。その猿人は当然のように私の隣の空席に座ると、一息ついたのか「はー」とため息をついた。「く、臭い….」。今まで体験したこともないような猛烈な臭いを放つ獣が今自分の半径50cm以内にいる。

 

上高地から降りてくるバスは当時まだエアコンが完備しておらず、幸い窓が空いていて爽やかな信州の風が入ってくるのだが、むしろその風が強烈な臭いを拾ってバスは下っていく。と、気付くと隣の獣は凄まじく汚れた登山靴を脱ごうと紐を解いている、「お、おい嘘だろ、やめてくれ」と思わず叫んだが、獣は言葉が通じないようでそのまま靴を脱いでしまった。バスのあちこちから「うわあっ」とか「くっさーい」とか叫ぶ声が聞こえる。隣の自分は真剣に気を失いそうになった。薄らぐ意識で次に正気を取り戻した時は新島々の駅に降り立っていた。他に数人降りたようだ。松本行なので、途中で降りる必要なないのだが、猿人騒ぎで身を守るために途中下車したのだ。

 

新島々から松本電鉄で松本に向かう車窓の正面には、信州の午後の日差しにうっすら霞む美ヶ原が見える。まだ気分がすぐれなかったが、松本で中央線の電車を待つ間に松本城まで歩いてみた。夕焼けに輝く松本城の向こうにオレンジ色の北アルプスの稜線が見える。「う、美しい」と独り言ちていると、気のせいか記憶のある臭いが鼻を突いた。同時に視界の隅のベンチで音を立ててパンを食っている黒い物体が見えた。嫌な予感がしたので、見なかったことにして帰路に就いたある夏の日の夕方だった。

 

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