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熊とロダン

2023年10月6日

もうだいぶ前のことになるが、知床半島の羅臼岳から硫黄山まで縦走したことがある。

朝早く羽田を飛び、午前中には女満別空港に降り立った。網走駅まではバスに乗り、そこから釧網本線で斜里駅に着いたときはもう午後1時で、ここから登山口の岩尾別温泉までのバスを待っていては夕方になってしまうので、距離はあるがタクシーを使い当時まだ残っていたユースホステルの裏手から登山を開始した。


いつものことで、登って直ぐはペースが上がらず苦しい時間が続くが、2時間半ほど登って振り返ると紺碧のオホーツク海が一望出来た。確か銀冷水という休憩ポイントまで3時間ほど掛かったと思う。そこで一人休憩をしていると、驚いたことにほぼ手ぶらの学生らしき青年が上ってきた。ユースホステルに泊まるが、時間があったので登って来たらしい。羅臼岳まで辿り着けても下る時には日没となり危険だと諭すと、あわよくば自分のテントに泊めて欲しいという。テントも一人用だし、余分な食料もないので断ると、渋々引き返して行ったのだが、いつでも無謀な登山者はいるものだ。


羅臼平のテントサイトにつく頃には日が暮れ、オホーツク海も漆黒に染まろうという時間だった。狭いテントサイトには一張りだけ先客がいたが、人の気配はせず、明日のためにもう寝ているようだった。自分もテントを張り食事を済ますとほどなくして寝てしまった。夜中に用を足すためにテントを出ると、あり得ないくらいの星が降ってくるようで感激したが、熊の陰に怯えてすぐにシュラフにもぐりこんだ。


翌朝起きるともう一張りのテントはなかった。濃霧の中、テントをそのままに羅臼岳山頂を目指す。羅臼岳の山頂もガスっていて眺望がないので、早々に下ってきたが往復1時間半近く掛かってしまった。テントを撤収して縦走路に入る。左手には壮大なオホーツク海、右手には国後島、前方は見渡す限り緑の尾根だが、すでに9月で秋の気配も感じるほど緑に力強さはなかった。ひたすらアップダウンを繰り返すが、ひょっこり木の陰から熊が出てきそうで、鈴に加えてラジオを付けたまま歩くことにする。


5時間ほど歩き、南岳を過ぎると左側に今日のテントサイトの箱庭のような盆地が見えてきた。雪が残っているので水にも困らないだろう。嬉しいことにテントが一張り見え、複数の人間らしき影も見えた。今日は言葉を発していない。喜んでその盆地目指して尾根からガレ場を下っていく。まだ1キロほどの距離があったが2人の人間が見えた。「……!」と何か叫んでいる。向こうも人恋しかったのだろう、歓迎してくれているかと思い、走る様に下っていくと左下の茂みから「ガサガサっ」と音がした。何だろうと思いながらも下っていくと、例の2人組が盛大に爆竹を鳴らし始めた。「大歓迎だな」と苦笑しながらも下っていくと、また左の茂みから「ガサガサッ」と音がした。2人組までまだ数百メートルの距離だ。何か叫んでいるが聞き取れない。が、そこで何か異常を知らせてくれているのに気が付いた。「xxxxく……ま…..!」 と聞き取れた。そこで始めて左の茂みに熊が逃げ込んでいることを理解した。「くるなー! くまー!」 と今度はハッキリと聞き取れた。その瞬間反転して下って来たガレ場を声にならない悲鳴を発しながら登り戻った。いや、実際に悲鳴を発していたのだろう。心臓が爆発しそうなくらいの急登を20分ほどで登り切り、尾根を走る様に逃げた。草むらや森林帯には怖くて近づけないので、結局尾根筋で夜を迎え、知円別岳の頂上付近でテントを張ることを決意した。さすがにここまでは熊も来ないだろう。しかし一晩中ラジオを付けて、たまに意味もなく叫んだりして熊の襲来を避けていると、殆ど眠れずに朝を迎えた。長居は無用だ。30キロ近い荷物を担いでいたが、走る様に硫黄山を目指す。


硫黄山が近づくと噴煙で辺りが全く見えなかったが、この噴煙と溶岩や火砕物の地面のお陰でさすがにここは熊の領域ではないだろうと気が緩んだ。カムイワッカ湯の滝までの長い下りも先に見える紺碧のオホーツク海を見せるのも今日が最後と思うと名残惜しさを感じた。「もう歩けない…」と挫けそうになった時、急に林道に出た。そしてその林道では作業員が数名林道を整備しているようだった。自分の姿を見ると少し驚いたようだったが、「熊出たかえ?」と話しかけてきた。「出ました、出ました」と少し自慢げに答えると、「今年は多いからのー。」と教えてくれた。そう言えば行きのタクシーでも「今年は多い」と教えてくれていた。


林道をしばらく歩き、カムイワッカ湯の滝を目指した。今日は網走から旭川を経由して利尻岳に登るために稚内に向かうのだ。汗を流して着替えておきたい。幸い滝壺には誰もおらず、軽量化のため海パンも持っていないので、丸裸で温泉に浸かる。ようやく生き返った気がした。しばらく目を瞑って昨日今日の縦走を振り返って独り言ちていると、物音がしたので身構えていると、初老の男性が同じ滝壺に入ろうとしていた。この男性も丸裸だ。「この世の天国ですなあ」と2人して湯に浸かっていると、ほどなくして男性が一眼レフを持ってきて、「これで自分を撮ってくれないか」と言ってきた。こちらが返事をする間もなく、男性は岩の上に座り、ポーズをとっている。肩肘を片膝に乗せて顎を乗せているポーズは「ロダンの考える人」のようだ。しかしなんせ肝心の部分が見えてしまっているので「見えてますよ」と注意を促すと、「なーに、構わんですよ、粗末なものなので」と答えてきた。いや、構うのは自分の方なのだが、他に人もいないのでさっさと撮ることにした。なんせ自分も裸だ。しかし驚いたことに、その男性は何カットも自分に撮らせ、その度にポーズを変えてきた。最後には「人魚のポーズ」まで披露して、挙句に「よかったら撮ってあげますよ」と調子に乗ってきた。


このままこの人と湯に浸かっていると何をされるか分かったものではないので、早々に服を着てバス停を目指すとちょうどバスが斜里に向けて出発するところだった。あの男は間に合うまい。今度はホントにホントに「ホッとして」、利尻岳を目指して下界に向かった。熊も恐ろしいが人間も恐ろしい。そんなことを感じた北海道の旅だった。(現在カムイワッカ湯の滝およびその付近の野湯への立入は規制されています)

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