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旅と、偶然の味

2026年9月3日

昔から公私で全国各地を旅してきたが、その楽しみの一つに食事がある。昔はグルメサイトなどなく、地元の情報かガイドブック、そして行き当たりばったりで店を選ぶしかなかった。


今はネット情報で店を選ぶことができる。しかし不思議と、ネットで選んだ店は、大失敗もないが大当たりもない。そして後で思い返してみても、何を食べたか全く思い出せないことがほとんどだ。


誰でもいい店に行きたい、損はしたくない、美味しいものを食べたい、と思う。そこでグルメサイトに頼るわけだが、それで記憶に残る素晴らしい店に出会ったか、と聞かれれば、残念ながらないのだ。


人生で3つ、忘れられない味がある。


一つ目は松江の寿司屋だ。


その日は高松で仕事を終わらせて、松江のホテルに着いたのはもう午後10時くらいだった。長時間の夜の運転で疲れていたし、雨も降っていたので、何も食べないで倒れるようにベッドで寝てしまった。


しかし夜中に空腹で目を覚まし、寝られなくなってしまった。外を見ると、対岸の橋のそばに寿司屋が見えた。まだ営業しているようだった。普段、回らない寿司屋なんて行かないが、他に営業している店を探す気力もないので、橋をトボトボ渡ってその寿司屋に入った。客は他にアフターっぽい男女客がいるだけだった。


カウンターの隅に腰掛け、ビールを頼み、「今、美味しいものって何ですか?」と大将に聞くと「岩牡蠣」だという。恥ずかしながら当時は「牡蠣の旬は冬」と思っていたので少し面食らったが、岩牡蠣を頼んでみた。すぐ出てきた岩牡蠣は、自分が知っている牡蠣の3倍ほどの大きさもあった。一口で食べると、濃厚な旨味と海の香りが口いっぱいに広がった。幸せだった。牡蠣は好きだが、こんな牡蠣は食べたことがなかった。


ビールをもう1本と、また岩牡蠣を注文した。一口で食べた。衝撃だった。東京に帰って馴染みの小料理屋の大将に聞くと、岩牡蠣の旬は夏だと知った。


無知とは怖いが、知らない方が美味しいものに偶然出会える楽しさも知った。


二つ目の店は旭川の寿司屋だった。寿司屋が多いが、出張先で一人でも入りやすい店を探していると、結局寿司屋になる。今の人たちは、一人でもガンガン混んでいる有名店に入っていき、堂々と酒と食事をグループ客に囲まれながら楽しんでいるので凄いと思う。自分は何度も何度も人のいなさそうな店の前を通って様子を伺いながら、恐る恐る入っていく小心者だ。


予想通り、その店に客はいなかった。カウンターの隅に腰掛け、ビールと「つまみに旬の美味しいものを」と聞くと、「キノコ」という。確かに旭川は内陸だから河岸に近いわけではないが、それでも寿司屋でキノコとは驚いた。出てきたキノコは少し大きめのナメコに大根おろしが掛かっていて、食べると強いツルッとした喉越しと、しっかりと肉厚な歯ごたえの後に、キノコの強烈な香りと旨味が押し寄せてきて衝撃だった。聞くと現地では「ラクヨウ」(落葉)と呼ばれ、舞い落ちたカラマツの落葉を押しのけるようにして顔を出す「ハナイグチ」というキノコのようだ。落葉林で取れるからラクヨウとは、何とも風流な呼び方ではないか。


しかし寿司屋で魚を食べないわけにはいかない。「次のおススメは?」と聞くと、「サンマ」とぶっきらぼうに大将は言った。出てきたのはサンマの刺身だった。東京にいても滅多にサンマは刺身で食べない。生姜醤油に少し付けると、さっと脂の輪が醤油に広がった。唸った。大将は言った。「今朝、河岸に上がったやつだよ。」


一体どこの河岸だよ、と思いながらさらに食べると、口の中はオホーツクの海の香りで満たされた。プリプリした食感。濃厚で甘みを含んだ脂。醤油を付けずともほのかに感じる海の塩気。こんなサンマは食べたことはなかった。以来、「サンマは旭川に限る」となった。


最後は八ヶ岳の麓にあるゴルフ場での出来事だった。


小淵沢にログハウスを建てた上司に招かれて、1日目はバーベキューを楽しみ、2日目はその上司や先輩らと小海のあたりだろうか、ゴルフコースに行った。案内板はなく、ナビもない時代なので、なかなか場所が分からずスタート時間も迫り焦っていた。地図を見るともうその場所付近のはずだが、見えるのは工事現場の事務所のようなプレハブ小屋だった。一番若い自分がそのプレハブ小屋にゴルフ場の場所を聞きに行くと、何とその小屋がクラブハウスだった。衝撃を受けている暇もなく、受付を済ませてラウンドの支度をしていると、その小屋の番人が「弁当はどうしますか?」と聞いてきた。「なんだあ、弁当って?」と誰もが不思議に思ったが、深く考えている時間もないので「お願いしまーす」と言ってスタートした。


そのコースは山岳コースどころの騒ぎではなく、森林を個人が切り開いたのであろうか、芝の少ないワイルド極まりないコースだった。勾配が半端ではなく、登りでは全員でカートを押しながら登った。「プロゴルファー猿」も真っ青の未開のコースだ。最後の方は3人で予約した上司を呪いながら回った。へとへとになりホールアウトをして小屋に戻ると、屈託なく小屋の番人が「お疲れ様です! 弁当、用意できています!」と明るく言った。正直、こんな小屋で弁当を食べるなら、さっさとログハウスに戻ってウッドデッキでビールでも飲みながら肉を焼きたいものだ。


重箱のような弁当箱をしぶしぶ開けると「ソースカツ丼」だった。未開の山岳コースで精魂尽き果てた身には重すぎる弁当だが、皆で無言でしぶしぶ食べた。先輩は「こんなコースでやるとゴルフが下手になる」と盛んにボヤいている。「いや、そこまで上手くないでしょ」とは突っ込まず、自分も黙々と食べた。


5分くらい経ったであろうか、誰かが呻くように呟いた。


「う、うめい……」


そう、そのソースカツ丼弁当は衝撃的なうまさだった。食欲のないはずが、皆の弁当を見ると、おおかた食べ終わっている。本当に旨いものはTVのように食べた直後に「うまい!」とはならないものだ。みな無言ながら獣が呻くように食べ進めて、気が付いたらとてつもなく旨かった、となるのだ。


カラッと揚がったカツの脂身の旨さもさることながら、ソースの複雑な味。味噌とかソースとか醤油とか、なんか色々なものがブレンドされているようだが、とにかくやみくもに旨い。そしてご飯の上にはたっぷりのキャベツが敷いてあり、心なしかカラシの風味も感じる。それから何度もその味を再現しようと試みたが、全く上手くいかないのだ。


次に八ヶ岳に招かれたときには、そのゴルフコースは潰れていた。


結局、いくら下調べをして美味しそうな店を探しても、情報は偶然の出会いには勝てないのだ。


沖縄にいると、スタンプラリーが如くSNSやグルメサイトで情報を辿って次々に名所を巡って、写真を撮って、「その情報通りを確認するツアー」をしている人が多いが、風に身を任せて偶然の出会いに身を置いてみることの方が、何十年も色褪せない記憶になるのだな、と最近思っている。



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