北京オリンピックが終わった。
スベる人生を歩んできた私は滑るスポーツが多い冬季五輪が好きだ。
雪や氷の上ならではのスピーディでスリリングな駆け引きも魅力だが、アスリートの動きが美しく記憶に残るものが多い。
この大会でもたくさんの感動を与えてくれた選手たちには感謝の念しかない。
しかし大きな課題も残した。
選手たちが大会ごとに進化していくのに対し、判定は進化どころか退化しているように思う。この大会は特に酷かった。
人間が判定する限り誤審は避けようもないが、技術点や芸術点を競う競技では、誤審というより、公正で公平でない判定があったように思う。
そもそも審判はどのように選出されているのだろうか。
それぞれの競技団体が選出して派遣するのであろうが、まずその選出方法が公正で公平なのか検証する機関はあるのだろうか。
平野歩夢選手が言っていた「選手は命を掛けている」という言葉は本当にその通りだと思う。
では審判は命を懸けて判定に臨んでいるのか。
別の命の懸け方をしているように思えてならない。
1回のミスで失格になる選手がいるならば、1回の誤審で審判も失格になるべきだ。
ましてそれが故意となると犯罪ではないか。まず審判をジャッジする審判が必要だ。
誤審が頻繁に問題となる柔道では、シドニー五輪の篠原信一選手の大誤審以来、ジュリー制度を導入することとなった。その制度に近いものは最低限必要だろう。
審判をジャッジする審判。それは選手が一番相応しいのではないか。
五輪に出場する選手となれば、体力や判断力も一流だがその人間性も一流だと思う。
自分自身が納得にいかない結果に終わっても、相手を称賛する気持ちを持っている。
スノーボードの竹内智香の転倒にジャッジは失格と判定したが、相手のドイツ選手は自分も自らが転倒したので、巻き添えではないと語っている。
2人とも転倒後に立ち上がって競技を続行してゴールは竹内選手が早かったが、結果は竹内選手のコース妨害による失格となった。
審判は8人中6人がドイツ人だったという。ドイツ人が出場していないならともかく、ドイツ人が参加している競技に全審判中75%がドイツ人で構成されていることは公平なのだろうか。
メダルを取ることは確かに困難だし素晴らしい。
しかしこの大会で多くの人が感動したものは、メダルよりも大切なものに対してだろう。
このままではメダルや五輪の価値も失われていく一方だ。
IOCはこの辺で判定の公正さや公平さを維持するために、大改革を断行するべきだろう。
その為には選手団が審判の公正さを判定するジュリー制度だと提案したい。
或いは審判なんて必要かな。選手同士で評価してもいい。
カーリングには審判はいないし。
なぜなら彼らがメダル以上に求めているのは公正さと公平さ、そしてお互いを称賛することなのだから。
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